クロード・シャノンによる暗号システムの通信理論:秘匿性の情報理論的定式化
はじめに:情報理論と暗号の邂逅
クロード・シャノンは、その画期的な論文「通信の数学的理論(A Mathematical Theory of Communication)」によって情報理論という新たな分野を確立しました。この理論は、データの伝送と圧縮に関する根本的な限界を明らかにしましたが、シャノンの貢献はこれに留まりません。情報理論が発表された翌年の1949年には、情報理論の概念を暗号システムに応用した「Communication Theory of Secrecy Systems」という論文をBell System Technical Journalに発表しました。この論文は、暗号の秘匿性(secrecy)を初めて厳密に情報理論的な観点から定式化し、現代暗号理論の基礎となる重要な概念を多数導入した点で極めて重要です。本稿では、この記念碑的な論文の内容を深く掘り下げ、その理論的な核心、歴史的背景、そして現代における意義について考察します。
暗号システムの情報理論的モデルと秘匿性の定式化
シャノンは、暗号システムを情報理論的なチャネルとしてモデル化しました。基本的なモデルは以下の要素を含みます。
- 平文 (Plaintext) $P$: 送信したい元のメッセージ。確率変数として扱われます。
- 暗号文 (Ciphertext) $C$: 平文を暗号化したもの。チャネルを通じて送信されます。
- 鍵 (Key) $K$: 暗号化・復号化に用いられる秘密の情報。
- 暗号化関数 (Encryption) $E_K(P)$: 鍵 $K$ を用いて平文 $P$ を暗号文 $C$ に変換する関数。
- 復号化関数 (Decryption) $D_K(C)$: 鍵 $K$ を用いて暗号文 $C$ を平文 $P$ に戻す関数。ただし、$D_K(E_K(P)) = P$ が成立する必要があります。
- 盗聴者 (Cryptanalyst): 暗号文 $C$ を傍受し、平文 $P$ や鍵 $K$ を推測しようと試みる第三者。
シャノンはこのモデルに基づき、暗号システムの目的を「盗聴者が暗号文 $C$ を知っても、平文 $P$ について可能な限り何も分からないようにすること」と定義しました。この「何も分からない」という状態を、情報理論における相互情報量を用いて定量的に表現します。
平文 $P$ と暗号文 $C$ の間の相互情報量 $I(P; C)$ は、暗号文 $C$ が平文 $P$ について提供する情報の量を示します。理想的な暗号システムでは、盗聴者にとって暗号文 $C$ は平文 $P$ に関する情報を全く提供しないべきです。つまり、$I(P; C) = 0$ であるべきです。
ここで重要な概念が「一様分布からの逸脱(の情報量)」としての $I(P; C)$ です。盗聴者は暗号文 $C$ を観測した後、平文 $P$ が取りうる可能性についての自身の確信度(確率分布)を更新します。暗号文 $C$ が $P$ に関する情報を含まない場合、盗聴者の事後確率 $P(P=p | C=c)$ は、事前の確率 $P(P=p)$ から変化しないはずです。つまり、$P(P=p | C=c) = P(P=p)$ が全ての $p, c$ について成り立つ状態が理想です。この状態は、相互情報量 $I(P; C)$ がゼロであることと同値です。
シャノンはこれをさらに進め、「理想的な秘匿性(Perfect Secrecy)」という概念を定義しました。理想的な秘匿性とは、全ての可能な平文 $p$ と全ての可能な暗号文 $c$ に対して、$P(C=c | P=p) = P(C=c)$ が成り立つことと同値であると示されました。これは、平文 $P$ の値が何であったかに関わらず、観測される暗号文 $C$ の確率分布は変わらない、つまり暗号文から平文について一切推測できない状態を意味します。情報理論的には、$I(P; C) = 0$ が成立することと同値です。
Equivocation(曖昧性)の役割
シャノンは、盗聴者が暗号文 $C$ を知った後でも平文 $P$ についてどの程度不確かさが残るかを示す指標として「Equivocation(曖昧性)」という概念を導入しました。これは条件付きエントロピー $H(P|C)$ で定義されます。
$H(P|C) = - \sum_{c \in \mathcal{C}} P(C=c) \sum_{p \in \mathcal{P}} P(P=p | C=c) \log_2 P(P=p | C=c)$
$H(P|C)$ は、暗号文 $C$ を知った上での平文 $P$ の平均的な不確かさを表します。理想的な秘匿性を持つシステムでは、$P$ と $C$ が統計的に独立であるため、$H(P|C) = H(P)$ となります。これは、暗号文を知っても平文に関する不確かさ(エントロピー)が全く減少しないことを意味します。
シャノンはまた、鍵 $K$ に関する曖昧性 $H(K|C)$ も考慮しました。盗聴者は暗号文 $C$ から鍵 $K$ を推測しようと試みる可能性があります。もしシステムが理想的な秘匿性を持つならば、$H(K|C) = H(K)$、つまり暗号文を知っても鍵に関する不確かさは減少しないはずです。
シャノンはこの論文で、理想的な秘匿性を達成するための必要十分条件の一つを示しました。それは、鍵空間のサイズが平文空間のサイズ以上であること($|\mathcal{K}| \geq |\mathcal{P}|$)と、全ての平文が等しい確率で出現する場合、それぞれの平文に対してそれを特定の暗号文に変換する鍵がちょうど一つ存在し、かつ鍵が一様分布から選ばれることです。
この条件を満たす最も有名な例がワンタイムパッド(One-Time Pad)です。これは、鍵 $K$ が平文 $P$ と同じ長さで、各ビット(または文字)が独立にランダムに選ばれ、平文と鍵がビットごとのXOR(またはモジュロ加算)で結合される暗号方式です。シャノンはワンタイムパッドが理想的な秘匿性を持つことをこの論文で初めて厳密に証明しました。ワンタイムパッドは、鍵が一度しか使用されない限り、理論的に解読不可能である唯一の暗号方式として知られています。
redundancy と Unicity Distance
シャノンはまた、平文言語の統計的な性質、特にその「冗長性(redundancy)」が暗号解読にどのように影響するかを分析しました。自然言語(例えば英語)は、全ての文字や単語の組み合わせが等しい確率で出現するわけではなく、特定のパターンや頻度を持ちます。この統計的な偏りが言語の冗長性であり、情報理論的にはソースのエントロピー率 $H(P)$ と最大エントロピー率(例えば、アルファベットのサイズ $A$ に対して $\log_2 A$)との差として定義できます。
$R = \log_2 A - H(P)$
この冗長性が大きいほど、暗号文から元の平文の構造や統計的性質を推測しやすくなり、暗号解読が容易になる傾向があります。
シャノンは「Unicity Distance(一意性距離)」という概念を導入しました。これは、十分に長い暗号文が与えられたときに、真の平文と鍵のペアが統計的に一意に定まるために必要な暗号文の最小の長さの期待値です。Unicity Distance $U$ は近似的に以下のように表されます。
$U \approx \frac{H(K)}{R}$
ここで $H(K)$ は鍵のエントロピー、$R$ は平文言語の冗長度です。鍵のエントロピーが低い(鍵空間が小さい、または鍵の分布が偏っている)ほど、あるいは言語の冗長度が高いほど、Unicity Distance は短くなります。これは、短い暗号文からでも鍵や平文が推定されやすくなることを意味します。ワンタイムパッドのように $H(K) = H(P)$ であり、$R=0$ (鍵が平文と同じ長さで真にランダムであれば、暗号文は平文の統計構造を隠蔽し、ほぼ完全なランダムに見えるため)となるシステムは、Unicity Distance が無限大となり、有限の暗号文からは鍵や平文を一意に決定できないことを示唆しています。
歴史的背景と現代への影響
シャノンの暗号論文は、彼が第二次世界大戦中にBell Labsで行った暗号研究の経験を色濃く反映しています。彼は当時、Bell Labsのクリプトグラフィ部門で、アメリカ政府(特に海軍)のためのセキュアな通信システム開発に関与していました。特に、暗号機SIGSALYの開発チームの一員であった経験が、この論文に示される通信システムとしての暗号という視点や、ワンタイムパッドに対する深い洞察に繋がっていると考えられます。論文は、戦後になって機密指定が解除された彼の戦時中の研究成果を基にしています。
この論文が暗号理論に与えた影響は計り知れません。
- 科学としての暗号理論の確立: それまで多くの部分が経験則や職人技に頼っていた暗号設計・解析に、情報理論という厳密な数学的基盤を与え、科学的な分析を可能にしました。
- 理想的な秘匿性の定義と限界: 理想的な秘匿性という概念を明確にし、それを達成するための条件(特に鍵の長さ)を示しました。これにより、ワンタイムパッドの理論的優位性が確立されました。
- 統計的解析への貢献: EquivocationやUnicity Distanceといった概念は、古典暗号の統計的解読(例えば頻度分析)がなぜ有効であり、それを困難にするにはどうすれば良いかについて深い理解をもたらしました。
- 現代暗号への示唆: 理想的な秘匿性は計算能力に関わらず保証される「情報理論的安全性」という概念の源流となりました。現代暗号の多くは、計算能力に限界があるという前提に基づく「計算量的安全性」に依拠していますが、シャノンの理想的な秘匿性の概念は、物理層セキュリティや量子暗号など、特定の条件下で情報理論的安全性を追求する分野で今日でも重要な指針となっています。
関連研究と今後の展望
シャノンのこの論文は、情報理論的セキュリティという分野を切り開きました。その後、情報理論家たちは、盗聴者が存在する環境(Wiretap channelなど)における安全な通信容量の研究や、秘密鍵の合意形成、秘密分散、共通乱数生成といった、セキュリティに関連する様々な情報理論的タスクの研究を進めてきました。WynerのWiretap channelモデル(1975年)は、シャノンの仕事をチャネル符号化の観点から発展させた重要な研究例です。
現代では、計算量の限界に基づかない情報理論的安全性の保証は、特に盗聴者の計算能力が未知または非常に高いと想定されるシナリオ(例えば、量子コンピュータを持つ盗聴者に対するセキュリティ)において、再び注目されています。シャノンの提示した理想的な秘匿性という概念は、このような未来のセキュリティ技術を考える上でも、その究極的な目標として、あるいは評価の基準として、引き続き重要な意味を持ち続けています。
結論
クロード・シャノンによる「Communication Theory of Secrecy Systems」は、情報理論の誕生に続き、暗号理論に革命をもたらした重要な論文です。暗号システムを情報理論的な観点からモデル化し、秘匿性を厳密に定式化することで、暗号の科学的解析の扉を開きました。理想的な秘匿性の概念、Equivocation、Unicity Distanceといった導入された概念は、その後の暗号理論、特に情報理論的セキュリティの分野において、今日に至るまで中心的な役割を果たしています。この論文は、単に古典暗号の解析に留まらず、ワンタイムパッドの理論的完全性の証明や、鍵管理の重要性、言語の統計的性質が暗号強度に与える影響など、現代の暗号設計においても考慮すべき多くの示唆に富んでいます。シャノンの情報理論と暗号理論における基礎的な貢献は、情報科学分野の研究者にとって、今後も学び続けるべき貴重な遺産と言えるでしょう。